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Silent Flower Cracks Concrete

個人的な雑感、備忘メモ

背骨と戦い方

コアコンピタンスという賞味期限切れの言葉があるが、この本はその体現となる事例を紹介している。世間を揺るがすスクープを連発する週刊文春、その組織能力はどういったものなのか。

本書や下記のインタビューで新谷編集長が繰り返し言及しているように、週刊文春には一本明確な「背骨」が通っている。

news.mynavi.jp

 ”週刊文春は、大きなスクープを飛ばして世の中の注目を集め、輝きを増していくメディアであり、そうあることがアイデンティティになっている(『文春砲』P.30)”

「スクープを放つ」ということが存在意義として組織の根幹に据えられ、そのために構成員の戦い方一つ一つが設計され磨き上げられている。

地取り(聞き込み)・物読み(資料分析)・張り込みといった徹底的なファクトチェック、スクープのタネとなるネタを見つける情報収集、週刊という極めて短いサイクルに合わせて必ず何かしらのアウトプットを出す、記事のメッセージを研ぎ澄まし構成を決める編集、等々。

社会に大きなインパクトを与える事業を営む人達は、どんな背骨を据えてどのような戦い方を実践しているのか。週刊文春という特異なメディア、というバイアスを外してフラットな視点で読むと非常に学ぶ点の多い一冊だった。

 

評論家の罠

自戒を込めて言いますが、足下が安定し視界が開けてくる30代には「評論家の罠」が待ち受けていると思っている。

当事者じゃないのにもっともらしいことを上から目線で言うのは、凄く楽だしとっても気持ちがいい。自分がひとかどの人物になった気がする。それはとても魅力的で、中毒性があって、危うい。

当事者だけが見ている景色、踏んでいる歩み、体験している苦痛がある。語られる資料の背後には語られなかった意思や葛藤がある。そこをまるっと無視されると、失望だけが残ってしまう。

お客様からも同僚からも本当に信頼されるのは、辛い時に一緒に考えて一緒に動いてくれた人だけ。言うまでもなく。

この春で社会人生活10年目に突入しますが、愉悦あふれる評論家の罠に陥らないよう、口だけじゃなく手や足を動かし、身体・頭・心に汗をかくことを忘れないようにしようと思います。

越境する営業

企画という立場ながら営業部で仕事をするようになって4年、改めて営業という仕事の奥深さについて考えるようになった。

誰かが誰かに何かを売るという活動の集積で世の中が成り立っている以上、モノを売ってしっかりカネを稼ぐことができるというのは、生きることに直結するスキルなのではないか。そしてそれは色々な意味でカネを稼ぐことが至上命題となった30代として、最も磨くべきスキルなのではないだろうか。

今年に入って寝食を忘れるほど日常を侵食された一冊が、横尾宣政氏著『野村證券第2事業法人部』だ。全盛期の野村の最前線、「事法マン」として大活躍した著者の生々しい働き方を知り、圧倒的な成果を叩き出す営業の真髄について考えるようになった。他の営業マンとは全く違う、突出した実績を上げ続ける営業の特徴はどこにあるのか。

第2章「コミッション亡者と呼ばれて」にこんな記述がある。

"コミッションを稼ぐためには、とにかく担当会社に商品を何か買ってもらわなければ話にならない。だから私は「どういう債券を出せば売れるのだろう」と考え続け、「売れるように工夫した債券を作って、どこかに発行してもらおう」と、終始目論んでいた。"

駆け出しの地方支店営業時代、著者は販売指令が下った金融商品をいかに客に嵌め込むかに血道を上げていく。しかし本部の事業法人部に異動してからは、企業のファイナンスを担えるようになったこともあり、いかに売れる商品を作り上げるかに工夫を凝らすようになる。営業からいわば商品企画に接近していく。

ここにいわゆるソルジャー営業との最大の違いがあるのではないか。営業の職掌を越えて、売れる商品を作り上げること。あるいは売れるように仕立てていくこと。

領分を越境するほど創意工夫を凝らすことで、突出した実績を上げる。この仕事のダイナミズムは他に代え難いものがあるのだろう。

こんな記述もある。”法人マンに必要なのは外交回数ではなく、担当会社に対して知恵を絞ること。”

自分にしか出せない知恵でモノを売り、収益を稼ぎ出す。30代はこの点に注力していきたい。

邪道と王道

最も好きな小説家を三人挙げるとしたら、全員著名な大作家だが、村上春樹森博嗣小川洋子の名前を挙げたい。

村上春樹は、自著『職業としての小説家』で述べているように、音楽を演奏するように小説を書いている。森博嗣は、小説家になることは手早く大金を稼ぐ手段だと言いつつも、工作をするように小説世界を組み上げ、確かなメッセージを伝える器として使おうとしている。

他の本質を以って(持ち込んで)そのものに向き合う言わば「邪道」であるこの二人のアプローチは、却って小説というフォーマットの本質を抉り出しているように思える。

一方で小川洋子は、どこまでも確かに小説を書くように小説を書いている、そんな印象を受ける。文体は緻密で静謐な空気感が一貫しており、小説というフォーマットでしか現れない想像力の具現化を感じ取ることができる。

邪道と王道。アプローチは違えど小説のコアに近づく力は同じであり、その絶え間なく力強い歩みに強く惹きつけられる。